一宮市木曽川町のJR木曽川駅の近くに「見染塚」としるされた碑が立っている。「俳聖」といわれた正岡子規が、この地で出会ったある女性とのエピソードをもとに、平成6年に建立されたものだ。折しも来年秋には、子規が主役の一人として登場する「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)がNHKスペシャルドラマとして放映される。そこで今回は、この正岡子規と見染塚について触れてみたい。
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| JR木曽川駅近くにある「見染塚」。平成6年に建立された |
正岡子規は慶応3年、愛媛県松山で生まれている。本名は常規(つねのり)で子規は俳号。新聞社に務めながら俳句や短歌の革新に尽力したことで知られる。
しかし子規は肺結核によりたびたびかっ血。新聞社退社後も病苦と闘いながら雑誌「ホトトギス」を主宰するなどしたが、明治35年、34歳の若さで亡くなっている。
子規は一方で、野球を日本に紹介したことでも知られている。自らも楽しみ、俳句や随筆などに書いて野球の普及に貢献した。「打者」「走者」「直球」など、子規による訳語は現在も使われており、これらの功績から平成14年には野球殿堂入りもしている。
一方、「見染塚」建立の発端となった女性との出会いについて、子規は明治32年に発表した随筆「旅」の中で次のように書いている。
「〜それよりも不思議は、一生に只一度の思ひは残る木曽川の停車場とて、田の中に茶屋三軒、其一軒に憩いて汽車待ち合はせしに、丸顔に眼涼しく色黒き女、十六ばかりに何の見処もなきが、これ又如何にしてか心の奥迄しみこんで、ここに一夜を明かす言ひ草まだ考へつかぬ内に、汽車が参りました、お急ぎなされませと、彼女かいがいしく我が荷物先に持ちて走るに、我もおくれじと汽車に走りこみける。其無邪気な顔どうしても今に忘られず。大方三人の子はあるべし〜」
この文章は明治24年6月、子規が旅の途中に木曽川の停車場で汽車に乗る際に駅前の茶店で休憩をした時の出来事をつづったものだという。
その後、この女性は実在するのか、するとしたら誰なのかについて大正8年、一宮市浅井の郷土史家・森徳一郎氏が調べたところ、木曽川町黒田の松本わくさんであることが判明した。
それによると、わくさんは明治4年生まれで、子規が見染めた当時はまだ独身で21歳(子規は当時25歳)。近所では「色は黒いが美人」という評判だったという。わくさんはその後、子規に見染められたなどとは知らず、千葉県の医師と結婚し50歳で亡くなっている。子どもがいなかったため遺骨は郷里に返され、この地で葬られたという。
その後、子規が見染めた女性の実在を知った地元では、大正8年にわくさんの絵はがきが作られたりした。また昭和に入ると見染塚の建立が呼びかけられ、新聞などで大きく報じられたが実現しなかった。その後も塚の建立話は何度も持ち上がるが実らず、結局、平成の時代になってようやく実現したのである。