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| 『尾張名所図会』に描かれた三八市の模様 |
かつての一宮の名物に、真清田神社前で開かれていた「三八市」がある。三八市は、享保12(1727)年、市が許可されたことに始まる。市の開設は地元の人々の度重なる誓願の結果、北方代官所が許可したもの。許されたのが三と八の日であったことから、こう呼ばれた。
その背景には、農業技術の進歩に伴い農作物のほかに綿や燈油の原料となる菜種、染料となる藍などの商品作物の生産が増大したこと、農家の副業だった綿織物などの生産が盛んになったことが挙げられる。これらの商品の売買や、みそなどの日用品の交換の場として、市開設の要望が農民の間に高まっていたのである。
三八市ではあらゆる商品が売買されていた。綿、糸、ろくろ、糸車などの綿織物に必要なものから、みそ、たまり、魚、酒などの食品、さらには農家にとって必要な竹かご、熊手、種や苗なども取り引きされていた。さらに、この人出に引かれて菓子屋やおでん屋、甘酒屋などが軒を連ねるようになり、時には見せ物小屋なども登場し、人々を楽しませたという。
綿織物の生産が活発化してくると、関係する製品が大量に三八市に集まるようになる。こうして市が開かれるときには岐阜や名古屋からも行商人が来て店を張るようになった。中には古手商と呼ばれる中古衣料を扱う店もあって、農民に人気があったという。
市への出店数は、天保13(1842)年当時で500近くあり、そのにぎわいのほどをうかがうことができる。その模様は、江戸時代末期に刊行された史跡・観光ガイドブックの『尾張名所図会』にも、「一宮 月並市」として絵入りで紹介されているほどだ。
このにぎわいは明治に入ってからも引き継がれ、明治5(1872)年の出店数は738にものぼっている。こうして三八市は愛知県一の市場となり、この地方の経済活動の中心となっていった。そして昭和5(1930)年にはピークを迎えている。
しかし戦争の足音が高まるにつれ、市は次第に衰退していく。そして戦後の一時期にぎわいを見せた「闇市」が、形を変えた三八市の最後だといわれる。こうして、終戦直後に一瞬のにぎわいを見せ、三八市は消滅していったのである。