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| 被爆者集団訴訟支援のために作成されたCDには中村さんの被爆体験の朗読も収められている。 |
「まるで“生き地獄”のような惨状でした」。18歳の時、勤め先の長崎で被爆した中村昭子(てるこ)さんは被爆直後のことをこう振り返る。「頭が割れ、脳が飛び出した少女」「顔のなくなってしまった人」「丸焦げになった女性」……。中村さんが目撃した光景は、文字通りの“地獄絵図”であった。自身も被爆による後遺症に悩まされ続けてきた中村さん、その後の人生も苦難の連続であった。
昭和20年8月9日午前11時2分、6日の広島に続いて、人類史上2発目の原爆(プルトニウム爆弾)が、長崎市の上空約500メートルで爆発した。この時発生した火の玉は、直径約280メートル、その表面温度約5,000度。この巨大な火の玉は“小さな太陽”となって約10秒間、長崎上空で輝き続けた。
“小さな太陽”からは大量の放射能がまき散らされ、爆風は建物をなぎ倒し、熱線は人々を焼き尽くした。直接被爆者は約28万人。うち約8万人がその年の終わりまでに死亡した。犠牲者の大半は非戦闘員。アメリカ軍による無差別大量殺人であった。
中村さんはこの時、爆心地から約3.5キロ離れた造船工場で働いていた。宮崎の女学校を卒業後、就職して1年数ヵ月後のことであった。機械部品の設計事務を担当していた。
「せん光の後、爆風で工場の建物のガラスが粉みじんに砕け散り、私は吹き飛ばされ棚の下敷きになりました。同僚に助けられましたが頭部に傷を負ってしまったんです。その時、外で働いていた韓国人の少女たちは、一人は頭が割れ脳みそが飛び出し、手で押さえていました。もう一人は両手が皮だけを残してなくなっていたんです。別の韓国人男性は外で酸素ボンベを扱っていたため、これが爆発し全身に大きな水疱ができていました」
工場内の診療所は爆風で破壊されたため、中村さんは同僚に付き添われ、外の病院へ傷の治療に向かった。しかしこの時道に迷い、爆心地に向かってしまった。そこには「まるで“生き地獄”」のような光景が広がっていた。
「街は破壊され、ほんとうに悲惨なものでした。顔のなくなってしまった人、両うでのない人、目がなく顔に穴があいている人、全身やけどでウミようのものを垂らしている人……、こういった人がたくさんいました。壊れた電車には人が丸焦げになって重なって倒れ、運転士さんはハンドルを握りしめたままの格好で死んでいました」
この時、中村さんは放射能を含んだ黒い雨を浴びてしまう。付き添ってくれた同僚の2人の女性も1人は後に白血病で死亡、もう1人は自殺してしまった。中村さんも帰郷後に体に変調が起こる。
「血便が止まらなくなり、髪の毛がどんどん抜け落ちて丸坊主になってしまったんです。軍人だった父親は『皆に感染する』と言って私を漬け物小屋に閉じこめました。本当に情けなかったです。父を恨みました」
その後、症状は治まったものの、体は元には戻らなかった。被爆体験はその後の人生を変えてしまったのである。
「結婚したものの相手先の親からは「体が動かないのを『なまけもの』と言われたり、ゴキブリ扱いされたりしました。結局、離婚。その後、請われて障害のある人と再婚。ここでも親からやっかい者扱いされ、障害のある子どもを連れて何度死のうと思ったかわかりません。でも子どもにはげまされ、夫と3人だけで暮らすようになりましたが、夫も今年になって亡くなってしまったんです」
中村さんは被爆者手帳を持っているが、原爆症には認定されていない。被爆者は全国で約28万人いるが認定されているのは1%にも満たない。国は、爆心地近くで被爆した人で、特定のガンや傷病の人以外は「放射能による病気ではない」と切り捨ててきたためである。
そこで、長い間体の不調を訴えてきた中村さんは、地元の被爆者たちと訴訟に踏み切る。全国で原爆症の認定申請を行ない、却下された場合は処分の取り消しを求める集団訴訟である。現在、名古屋地裁で審理が進んでいる。
「最近は頼まれれば、どこへでも行って自分の体験を話しています。生き証人としてあの日、長崎で何が起こったのかを伝えたいからです」
原爆を落としたアメリカと、被爆者に冷たい仕打ちしかしない国。中村さんは「どちらも許せない。こんな思いは私たちで終わりにしてほしいです」と、小さなこぶしを握りしめた。