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| 「千秋ネギは本当に柔らかく、優れた品種。後世に残していきたいですね」と夫馬さん |
千秋のネギといえば、白身(ネギの白い部分)が多く、柔らかくてクセのない味が特徴。一度食べたら、そのおいしさは忘れられない。この千秋ネギの組織的生産を呼びかけ、千秋町をネギの産地として世に知らしめた仕掛人が、夫馬正義さんだ。農協を退職した現在も、千秋ネギの普及に尽力する日々をおくっている。
農家の長男に生まれましたので、すんなりと家業を継ぎ、百姓をしていましたが、昭和43年から尾張農協の職員として働き始めました。それが千秋ネギをこの地の名産品として世に送りだすことになったきっかけでした」と語る夫馬さん。
千秋町は、もともと越津ネギという品種で明治時代からネギ作りを行ってきた産地。木曽川の沖積地は、耕土の深い砂穣土で、ネギの栽培には最適の土壌だという。
「土を深く耕せるし、また高く盛れるので、白身を長く作ることができ、しかもみずみずしく柔らかいネギができます。太くて短い下仁田のネギが『殿様ネギ』なら、千秋のネギは、スマートで気品に満ちた『貴婦人ネギ』といったところでしょうか」
そんな品質の良い千秋ネギだが、当時は各農家がそれぞれの作り方で、てんでに出荷していた。
「品質は文句なしですから、いっそこの地の名前をとって『千秋ネギ』として販売していこうということで『佐野園芸組合』が発足したのが昭和45年。その翌年には『千秋園芸組合・ネギ部会』がスタートし、共選(共同で選別し、出荷すること)に着手しました」
ネギ部会が発足し、土壌作りや営農のシステムづくりなど、大忙しの夫馬さんだったが、何が大変といって「人をまとめることほど大変なことはなかった」と述懐する。
「何しろ、自分のネギづくりが一番だと思っている人たちに、農協が決めた一定の基準を守ってもらって、ネギの大きさや品質をそろえていかなくてはならないでしょ。当時は各農家を根気よく回って、こちらの意図を伝えることが一番大きな仕事でした」
そんな努力のかいあって、出荷高は順調に伸び、最盛期には連日、貨車100台分ものネギが出荷されたという。
「全国津々浦々、遠くは北海道にも運ばれていきましたよ」
昭和40年代は、まさに飛ぶ鳥落とす勢いだった千秋ネギも、生産者の老齢化に伴い、徐々に生産が縮小。200以上あった生産農家も今では65に減少してしまった。
「後継者問題に頭を悩ませる毎日です。ネギの栽培で経済的に潤うなら若い生産者も育ちますが、正直言って、あまりもうからないんですよ」
このことはネギだけでなく、農業全体に言えることだという。国の経済構造にまで話が及び、一地域がいくら頑張っても簡単には解決できないという難しい問題にぶつかっているようだ。
現在は農協を退職しているが、長年千秋ネギづくりに真剣に取り組んできた夫馬さん。以前テレビ番組の「どっちの料理ショウ」にも取り上げられ、話題にもなった千秋ネギの灯(ひ)をなんとか絶やさないように努力を続ける毎日だ。
「テレビでは、『まぼろしのネギ』的な存在として紹介されましたが、本当にまぼろしにならないように、少しでも生産を伸ばしていきたいですね」
越津ネギをもとにしてつくられる千秋ネギだが、種によって、太くて丈夫な「黒がら」、伸びの良い「赤がら」、その中間の「相がら」に分けられるそうだ。
夫馬さんは毎年この種を採取し、少しでも多く生産できるよう、各農家にも配布している。
「白身の部分が35cm以上、太さが1.9mmものを3L、白身が30cm以上を2Lと規格を決め、品質管理にも気を配っています」という千秋ネギ。われわれ編集室にもお土産に、採れたてをいただいたので試食してみたが、白身部分だけでなく葉の部分も柔らかく、本当においしかった。なべ物によし、薬味でもOK。今まで食べたネギの中でもダントツ一番である。
おいしさは天下一品なだけに、千秋の町がもう一度ネギの産地として復活するよう祈りたい。