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| 晩年の千代の肖像画 |
来年の「義経」に続く再来年のNHK大河ドラマが「功名が辻〜山内一豊の妻〜(仮題)」に決まった。原作は司馬遼太郎の同名小説。仲間由紀恵が主役を務めるという。
山内一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、最後は土佐22万石の大名にまで上りつめた戦国時代の武将。木曽川町(当時は葉栗郡黒田村)で生まれた郷土の英雄である(岩倉で出生したという説もある)。そのため木曽川町では毎年、8月の第1日曜日に「一豊まつり」を開催している。
しかし、一般的には一豊本人よりも妻・千代の方がよく知られている。戦前の教科書には『馬ぞろへ』と題した、千代による内助の功の物語が掲載されていた。嫁入りの際に持参した金10両で夫に名馬を購入させ、これが信長の目にとまって出世の糸口をつかんだという話である。「山内一豊の妻」と言えば、賢夫人の代名詞ともなっている。
では、夫の一豊はどんな人物だったのだろう?
一豊は、天文14年(1545)、黒田城を預かっていた山内盛豊の第2子として生まれている。しかし永禄2年(1559)、信長の岩倉攻めで盛豊は死亡。一豊は各地を転々とした後、信長に仕えるようになった。
朝倉征伐での軍功により400石を与えられたのが武将としてのスタート。しかし天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、秀吉に仕えることになり、北条征伐の軍功から掛川6万石の城主となった。
秀吉の死後は家康に仕えることを決意。それを意思表明したのが慶長5年(1600)の関ヶ原合戦である。一豊はこの時の軍議で、忠誠心を見せるため家康への城明け渡しを提案。これによって軍議の雰囲気は一変。諸将に家康に味方する決意を固めさせるきっかけとなった。
家康はこの時の一豊に深く感謝したようで、合戦後、一豊に土佐22万石を与えている。合戦で活躍しなかったにもかかわらず、一豊はこの時のひと言で大名となったのである。しかも、この提案は一豊の創案ではなく、友人の浜松城主・堀尾忠氏の考えであった。いわば親友の意見を借用して、その結果大名となったわけである。
土佐藩主になってからは冷酷な面も見せている。前藩主の残党による一揆を徹底的に弾圧したり、相撲大会などの罠をしかけて首謀者たちを皆殺しにするなどしたため、多くの土佐人に恨まれたともいう。土佐入国5年後の慶長10年(1605)、61歳で死去している。
一豊は律儀だけが取り柄の平凡な武将だったようだ。そのため22万石の大名になれたのは、妻・千代の内助の功あってとよくいわれる。千代は一豊死去の翌年、剃髪して京都の大通院に移り住み、一人静かな余生を送った後、元和3年(1617)、一豊と同じ61歳で死去している。
一豊は子どもがいないにもかかわらず、側室を持たなかった。跡継ぎこそが大事という、当時の大名としては大変珍しいことである。大通院には夫婦の墓が仲良く並んで立っているが、これも当時としては珍しい。いかにも生涯妻だけを愛したといわれる、一豊らしい締めくくりである。