「名所図会」は、近世後期に盛んに刊行された地誌の一種。寺社・旧跡の由緒や街道・宿場・名物の案内などに、その情景を描いた多くの挿絵が添えられている。旅行客の増加にともない需要が急増したため、全国で出版されたもので、いずれも各地の貴重な郷土史料となっている。
『尾張名所図会』もその一つ。尾張地方の名所や旧跡、さらには風俗や名産品、伝説などを紹介したもので、この地方でもっとも有名な郷土史本である。郷土史に関心を持つ人々にとっては入門書とも呼べる史料でもある。
『尾張名所図会』の構成は、前編7巻、後編六巻からなり、前編は天保15年(1844)、後編は明治13年(1880)に出版されている。絵図をふんだんに取り入れているのが最大の特徴で、江戸時代末期の尾張の様子を再現している。地域的には前編で愛智、知多、海東、海西の尾張下部の四郡が、後編では中島、春日井、葉栗、丹羽の上部四郡が紹介されている。現在の一宮市や木曽川町は後編の葉栗郡の項目で登場している。
同書は岡田啓と野口直道が執筆し、絵を小田切春江、森高雅らが担当している。岡田は尾張藩士で、藩命によって『尾張志』の編集にも携わっている。野口は枇杷島町の青物問屋の主人で、編集にかかった費用は野口が負担した。そのため野口は、この『尾張名所図会』で財産のほとんどを使い果たしてしまったともいわれる。小田切は絵の達人で四人の中でいちばん若く、森はその師匠にあたる。
後編が出版されたのは、前編が出版されてから四十年近くたってから。この時すでに岡田、野口らは故人となっていた。そのため残った小田切が、彼らの遺志を継ぎ、ひとり奮闘して出版にこぎつけたという。
では、この『尾張名所図会』に登場する一宮市、木曽川町エリアの一部を歩いてみよう。
およそ42平方メートルの狭い場所に大小18個の石がある。大きな石が7つあることから「七つ石」と呼ばれるようになったという。日本武尊(やまとたけるのみこと)が、ここで剣を研(と)いだという伝説から「剣研石(けんとぎいし)」ともいわれる。
『尾張名所図会』では「日本武尊 剣研石」として紹介し、「戸塚村にあり、村に巨岩多し。むかし日本武尊ここにて剣をとぎたまいしと伝え、砥塚と名付け、村名をもかく呼べり」と書かれている。
妙興寺は貞和4年(1348)、滅宗宗興(めっしゅう・そうこう)を開山とする臨済宗の巨刹(きょさつ)。南北朝時代、尾張北朝勢力の拠点として隆盛を極めた。うっそうとした樹木につつまれた境内は県の指定史跡。また、一宮市内でもっとも古い建物である勅使門は、国指定の重要文化財となっている。ほかにも国指定重要文化財の「足利義教像」など数多くの文化財がある。
『尾張名所図会』には寺の紹介とともに滅宗の経歴に触れ、「延慶三年誕生ありしが、幼齢にして聡明、秀才比類なく、7歳の時、ある観音堂に遊び、縁の下をのぞき、人はかかる高堂をつくれり、我はさる事なしとげるとぞ」と、42歳にして妙興寺を創建するいきさつなどが書かれている。
かつての一宮の名物だった「三八市(いち)」は、享保12年(1727)、市が許可されたことに始まる。許されたのが3と8の日であったことからこう呼ばれたという。そのにぎわいは周辺にも知られ、市が開かれるときには岐阜や名古屋からも行商人が来て店を張った。この模様は『尾張名所図会』にも「一宮月並市」として、そのにぎわいが描かれている。
尾張国の「一の宮」にあたる神社で、一宮の地名の由来ともなっている。平安時代より、国司が赴任した場合、一番初めに参拝する神社を「一の宮」と呼んだ。
平安時代以前の創建と伝えられ、数々の伝説のほか、舞楽面など神宝も多い。かつては広大な面積の社領を有していた。『尾張名所図会』には「正一位真清田神社」として、神社の全景や舞楽面など神宝、古地図などを絵図で紹介している。
真清田神社の例大祭。旧暦の3月3日、桃の節句に行われていたが、明治になってからは4月3日を祭礼の日とした。かつて神社の周囲に桃の木がたくさんあり、その木の枝を短冊とともに供えたことから「桃花会」や「短冊祭」とも呼ばれた。『尾張名所図会』では、真清田神社の他の祭事を紹介する一方、桃花祭についても山車の登場する絵図で詳しく紹介している。
清洲城主だった織田信長が尾張統一に向け、岩倉城(城主は織田信安)を攻撃した。その合戦の舞台となったのが一宮市千秋町浮野である。永禄元年(1858)、信長は2度にわたり浮野に陣を張り岩倉勢と激突。浮野川を中心に双方入り乱れての激戦が繰り広げられ、信長側が岩倉側を城にまで追い込んだという。翌年、岩倉城は陥落した。『尾張名所図会』にはこの合戦の模様が描かれている。
かつてこの地方はたびたび木曽川のはんらんに悩まされていた。そのため、尾張藩主・徳川義直が慶長15年(1610)、犬山から弥富に至る堤防を築いた。これが「お囲い堤」とも呼ばれる木曽川堤。しかしこの堤防は、尾張側の堤防だけを高くし、美濃側を低くしたため、その後の洪水による被害は美濃側にだけ集中した。『尾張名所図会』にも、この木曽川堤は随所に登場している。
古来から伝わる「河田の四つ塚」の1つ。葉栗臣人麿(はぐりのおみ・ひとまろ)の墓と伝えられる。7世紀後半ごろの葉栗郡郡司で光明寺を建立した。昭和8年、県道工事の際に発見され、現在地に塚が移築された。周辺は浅井古墳群としても知られている。
『尾張名所図会』には「葉栗臣人麿」として、「人麿は当国の住人にて、ここの光明寺を建立す」と紹介。絵図後方に、小山として人麿塚が描かれている。
古来、土地や村を守り、豊作をかなえるものを「神」として人はまつってきた。ふだんは天上にいるとされるその「神」が、地上に出現する際、降臨するのが「磐座(いわくら)」である。岩倉市などの地名もここから由来するという。一宮市浅井町黒岩にある石刀(いわと)神社の境内にまつられているのも、この磐座である。
『尾張名所図会』には「石刀神社」として、「黒岩村にあり〜今も岩を祭りて玉垣結いめぐらし、森々(しんしん)たる境地なり」とある。
「牛にひかれて善光寺まいり」で知られる善光寺の伝説は各地に残されている。その話はこうである。
百済の王が日本に仏教を伝えるとともに阿弥陀如来像を送った。これを信ずるかどうかを巡って蘇我氏と物部氏が争い、支持した蘇我氏の屋敷に如来像を置いたところ疫病が流行。そこで反対派の物部氏が屋敷を焼き討ちし、如来像を難波の掘へ投げ込んでしまった。数年後、信州の本田善光(よしみつ)が、難波の近くで名前を呼ばれると水の中から如来が出現した。善光は自分の故郷へ運び、寺を建てたというものだ。
木曽川町黒田にもこの善光伝説がある。それは、善光が如来を背負い信州へ帰る途中、黒田の宿で一泊した。その際、善光の労を如来があわれみ、善光を背負って信州まで飛んでいったというものだ。帰郷後、善光は自ら如来像を刻み黒田に送り、小さなほこらを建てた。これが黒田善光寺の始まりだという。
黒田善光寺はその後、合戦で焼失。善龍寺住職が再建したものの、後に清洲をへて名古屋に移転している。『尾張名所図会』では、善光を背負った如来が飛んでいく姿が描かれ、この善光伝説が紹介されている。
賀茂神社の境内にある玉ノ井清水は、「玉ノ井の霊泉」とも呼ばれ、それが地名となっている。鎌倉街道沿いにあって、この清水が光明皇后の目の病気を治したと伝えられる。そのため天皇や貴族、武将なども訪れたという。『尾張名所図会』では、賀茂神社とともに「玉ノ井の霊泉」の話が描かれている。
天保末の葉栗郡の織元の様子を描いたものといわれる。『尾張名所図会』には「当郡(葉栗郡)及び中島郡の村々に結城縞等の織屋多くありて、三都をはじめ諸国へ運送することおびただしく」とある。