![]() |
|
| 織姫の墓:光明寺霊園にある「光明寺村女工焼死事件」犠牲者の墓と「織姫の碑」/一宮市光明寺町 |
かつての機織り女工の生活は悲惨なものであった。朝5時には起こされ、1日の労働時間は15、6時間に及び、休日は月に2日だけ。麦と米の混じったご飯に漬け物といった粗末な食事と、監視下での過酷な労働。「女工哀史」と言われるゆえんである。
現在の労働基準法のような保護法もなく、劣悪な環境で働く彼女たちだったが、その労働環境を変えるきっかけとなった事件がかつて一宮で起きている。それは「もう一つの女工哀史」とも呼べるような悲惨なものであった。
事件は明治33年(1900)1月23日、葉栗郡光明寺村(現在の一宮市光明寺)にあった小島織工場で起きた。そこは工場兼炊事場の2階が寄宿舎になっており、当時49人の女工が寝起きしていた。午前3時ごろ1階で出火。火はたちまち2階へ燃え移り、3時間後に鎮火したものの建物は全焼。焼け跡からは、13歳から25歳までの女工31名の遺体が発見された。
彼女たちが火事に気づいた時、すでに1階は火の海だったという。そのため1階には降りられず、しかも2階の窓には、男が入ってこれないよう鉄格子がはめられていて、逃げるに逃げられなかったのである。2階の便所の窓をたたき割って外へ飛び降りた18名が、かろうじて助かったという。
当時の新聞は「旧正月にふるさとへ帰るため、新調した着物や家族へのみやげを心配しているうちに煙にまかれてしまった」とも伝えている。そこには「大事なふるさとへのおみやげを捨てては逃げられない」という、彼女たちの家族への切ない思いがあった。
その後の調べでは、犠牲となった女工たちの遺体は誰か見分けがつかないほど悲惨なものだったという。うち4名はとうとう判明せず、火事が「阿鼻叫喚の地獄図」だったことを裏付けている。悲報を聞いてかけつけた家族たちも、生きながらにして焼き殺された事実を知って激高。工場主に詰め寄ったため警官に押しとどめられた、と新聞は伝えている。
犠牲となった女工の大半は、現在の西尾市を中心とした三河地方の出身であった。そのためこの年の7月、葉栗郡の有志によって彼女たちのふるさとに「吊魂碑(ちょうこんひ)」が建立された。一方、光明寺村ではその後、光明寺墓園の一角に犠牲となった女工たちの墓石が集められ、中央に「織姫の碑」が立てられている。
この事件の3カ月後、愛知県は避難階段や消防器具の設置などを定めた「工場及寄宿舎取締規則」を発布した。彼女たちの犠牲によって、女工の労働環境は多少なりとも改善されたのである。現在の労働基準法の前身にあたる「工場法」が制定されたのは、その11年後の明治44年のことであった。