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い〜ちいまむかしロゴ2002年11月号・6号 - い〜ちいまむかし

お囲い堤と薩摩義士

治水神社/薩摩藩による「宝暦治水」をたたえるため地元民が建立した
治水神社/薩摩藩による「宝暦治水」をたたえるため地元民が建立した

 木曽川町内の里小牧や玉ノ井を南北に走る県道「西荻原北方線」は、ここだけ周囲より土地が高くなっている。これが江戸時代、尾張藩が木曽川の洪水から尾張地方を守るために築いた、いわゆる「お囲い堤」の跡である。

 かつてこの地方はたびたび木曽川のはんらんに悩まされていた。そのため、尾張藩主・徳川義直は治水対策に取り組むことを決め、1609年(慶長14年)、犬山から弥富に至る実に50キロもの堤防を築いた。これが「お囲い堤」である。「尾張の万里の長城」とも呼ばれ、当時としては空前の大事業だった。
 しかしこの堤防は、尾張地方を守るため尾張側の堤防だけを高くし、木曽川を国境とした美濃側を低くするようにした“えこひいき堤防”であった。「お囲い堤」と言われるゆえんである。そのため、その後の洪水による被害は美濃側にだけ集中することとなった。
 美濃側の水害対策は「お囲い堤」建設の150年後、「宝暦治水」まで待たなくてはならなかった。水害に苦しむ住民がたびたび幕府に陳情。これを受けて幕府は1753年(宝暦3年)、治水対策に着手する。この時、工事を命じられたのが薩摩藩である。工事は「関ヶ原の合戦」以来、潜在的反幕府勢力であった同藩の弱体化を狙ったものでもあった。
 薩摩藩は平田靭負(ゆきえ)を総奉行に任命し、工事に取りかかる。しかし工事は難航。1,000人の薩摩藩士は農民と共に水につかりながら難作業に従事したという。40万両の巨費を投じた工事は約1年後に終了したが、大きな犠牲をともなうものとなった。病気や幕府のやり方に反発しての切腹などで80人以上の薩摩藩士が死亡したのである。平田も工事完成後に切腹。藩士の死亡や巨額の費用負担を苦にしてのものといわれている。
 地元では、この「宝暦治水」に参加した薩摩藩士を「薩摩義士」と呼び、崇敬の対象とした。1938年(昭和13年)には、その偉業をたたえるため、現在の木曽三川公園の一角に治水神社も建立されている。神社では平田を祭神とし、犠牲となった薩摩藩士がまつられている。
 なお、「宝暦治水」でもできなかった木曽川、長良川、揖斐川の「三川分流」は、その後、明治政府の要請で来日したオランダ人技師・ヨハネス・デ・レーケによって1911年(明治44年)に完成している。

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