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| 「ハーモニカは奥が深い」と前田さん。後ろは妻の和代さん |
いつでもどこでも持ち歩ける手軽さと、音色の美しさから、今、ハーモニカがちょっとしたブームになっているという。
小学生からの愛好者である前田昌紀さんは「ちょっと、聴いてみる?」とジャズ風にアレンジした「ダニーボーイ」を軽く吹き始めた。するとあれあれ不思議!? 普通のおじさん(失礼)から急にかっこいいミュージシャンに変身したではないか。
前田さんは、実はハーモニカの世界大会でも入賞という実力の持ち主。仲間とともに演奏しながら、普及にも努めるハーモニカ界の功労者でもある。
「これが48コードの音が出る『コードハーモニカ』、大きいのは『バスハーモニカ』、4オクターブ出る『クロマチック』、小さいのは『ブルースハープ』」とコレクションを一つひとつ説明してくれる前田さん。
「終戦当時、名古屋から江南市に疎開していたボクはまだ小学生でした。モノのない時代、娯楽も少なかったので、かわいそうに思ったんだろうね。復員してきたばかりのオヤジがヤマハのハーモニカを買ってくれたんです。それがボクのハーモニカ人生の始まりでした」と前田さんは、当時を振り返る。
もともと音楽が好きだった前田さんは、暇さえあればハーモニカを取り出し、吹いていたという。
「だれに教えてもらったわけでもないけどね。中学3年生までは、我流でブンチャッチッチャ、ブンチャッチャとやってたよ」
音楽好きな前田少年はその後、マンドリン、ウクレレなども始め、東京の大学に進学後も、寂しくなるとハーモニカを持ち出しては吹いていたが、卒業後、名古屋にある家業の紙製品卸製造会社を継いでからは、忙しくなり、次第に音楽から遠のいていった。
前田さんが再び、ハーモニカとの関係を復活させたきっかけは、1976年のNHKの番組出演だった。
「『お達者ですか』という番組の『ハーモニカを吹く人、募集』という新聞広告を見つけたの。今まで忘れていたハーモニカへの思いがわーっと出てきて、夢中で応募しました」
その時に出会ったハーモニカの第一人者、岩田皇次郎氏の演奏法に大衝撃を受けたという。
「分散和音といってね、右の唇でメロディを吹いて、左の唇で和音を吹くんだよ。一人の人間が吹く一つの楽器から、こんなにたくさんの音色が聞こえてくるなんて、もう感動でした」
ハーモニカの奥の深さに目覚めた前田さんは、番組で知り合った人たちとバンド「レインボーカルテット」を結成。78年には「全日本ハーモニカ連盟」の支部として「中部ハーモニカ連盟(CHF)」を発足した。その後は中日文化教室や各地域のコミュニティセンター、また自宅などで教室を開くかたわら、バンドでの演奏活動も積極的に行い、95年の「世界ハーモニカコンクール・クロマチック部門」では、並みいる世界のプロや経験豊かな愛好家がひしめく中、見事5位入賞を果たした。
「クロマチックは、難しいけど、うまく吹けると、音がまろやかで、うっとりする音色です。それで賞をいただいちゃったから、もうやめられなくなっちゃったね(笑)」
150年の歴史を持つハーモニカの発祥の地はドイツだが、日本に渡ってきてからでも、すでに100年が経過しているという。
「ハーモニカづくりの技術でも日本は先進国。ヨーロッパの音楽文化を日本が取り入れ、独自の文化に育ててきたんですね。これからはアジア各国にその文化を広めていきたいですね」
前田さんをサポートし、自らもコンサートで演奏するほどの腕前を持つ妻の和代さんも、「ハーモニカのおかげで、私たち夫婦は本当に楽しい人生を送っています。美しい音色を持つこの楽器を通じて、世界の若い人たちがお互いを理解できるきっかけになればと思います」と、今後の抱負を語る。
ハーモニカは小さな楽器だが、言葉や文化の壁を一瞬にして乗り越え、お互いの心を通じさせるという功績は大きい。
「いつでもどこでも持ち歩けて、値段も手ごろというところもいいね。今はまだ現役で仕事をしているから、思うように活動ができないけれど、ハーモニカとのつきあいは生涯続けていくつもり。人の心に響くような活動をカミさんと二人三脚でやっていきます」
目下の前田さんの目標は、孫も含めた三世代ファミリーでの演奏活動である。